HSP・AC専門カウンセラー
HSPカウンセラー講座 講師

佐藤ちづ子

繊細で敏感な気質(HSP)や、育った環境により生きづらさを感じている方(AC)を対象に、レッスン型の個別カウンセリングやグループセミナーを行い、これまでに20代~60代の男女、医療従事者・経営者・管理職・起業家・俳優・主婦・OLなど、幅広い年齢層、様々な背景の方をサポートし、200名以上を改善に導いてきた。

< 略歴 >
嫌われることに対しての恐怖心が強く、神経質で体調も不安定な幼少期を過ごす 。
思春期に対人緊張、対人恐怖に悩む。
社会人になった頃より、共依存的要素で身近な人間関係に苦しむ。
同時に、過敏性腸症候群に悩む。
システム会社でインストラクターとして勤務。
わかりやすい指導と定評をいただき人の問題を改善に導く楽しさの原点となる。
その後、「癒しの仕事」へ転身。
リフレクソロジーや足で行なうボディセラピーの技術を習得。
ボディセラピストとして働く中で、体と心のつながりをひしひしと感じる。
師匠との共依存関係に苦しむ。その後サロン閉店。
結婚直後、環境の大きな変化により、パニック症状に悩まされる。心療内科を受診。
仕事を辞め休養。妊娠・出産・育児に専念。
その後「心理カウンセラー」の勉強を始める。
民間の養成機関で上級
カウンセラーの資格を取得。
勉強する中で、自身がACで共依存だったことを知る。
さらにHSPの気質があることがわかり、全て腑に落ちる。
自分の気質をわかり、思い込みによるパターン行動を日々改善しながら、生きづらさを克服。
2016年 AC・HSP専門カウンセラーとして活動を始める。
200名以上の方を改善に導き現在に至る。

えっ!私の家庭って機能不全家族だったの?!

私は、4人家族(父・母・姉・私)で、いわゆる普通の家庭に育ちました。
なので、自分がアダルトチルドレンに当てはまることが今一つ理解できませんでした。
愛情も注いでもらっていたと思うし、何不自由なく育ててもらいました。
普通に、幸せな家庭だっと思います。


ところが、よくよく思い返してみると、幼少の頃は、情緒不安定で、
お腹の不調を抱えていたり、体が小さかった為に、劣等感も人より強かったりして、
常にマイナスの感情や思考でいたような記憶があります。

父は、表面的には陽気な酒飲みと言った感じ。
ただ、不安や心配の気持ちが強いため、威圧的な感じはありませんでしたが、
母や私達は、父の思い通りにうまくコントロールされていました。
過保護で、楽しみを奪われたり、私の意思や、
可能性を汲み取ってもらえなかったりしたことも、多々ありました。

母は、父が連れてくる飲み仲間の対応に追われ、体調を崩しがちで、
いつもイライラしていた印象があります。
人様優先、自分は後回し。人には面と向かって余計なことは言わない代わりに、
愚痴も多かったように思います。

姉は、成績優秀、スポーツ万能で、私は姉と同じようにしなければ…という気持ちが強く、
必死に姉の後ろを追いかけていました。

もともと過敏で神経質な性格もあるのかもしれませんが、ストレスの多い子供でした。
親に心配かけてはいけない、親の言うことは絶対だ、親を喜ばせなきゃ、
大きくなったらきちんと社会に出て親を安心させなきゃ、結婚して孫の顔をみせなきゃなど、
常に、
親のことを気にして生きてきました。

私はこの家庭の中の役割として、「いい子(ヒーロー)」「なだめ役(プラケータ)」
「人形(プリンセス)」などをこなしてきたのです。

それでも、楽しかったこと、いい思い出もたくさんありますし、
私は、父も母も姉も大好きですから、この家庭に育って良かったと、昔も今も感じています。


だからこそ、アダルトチルドレンで共依存であることを認めずらかったのですね。

人に嫌われることを酷く恐れていた(幼少期~思春期)

物心ついた頃から、人に嫌われることをとても恐れていました。
人の顔色を気にし、不機嫌な人がいないかどうか、いつもビクビクしていました。

幼稚園や学校で、友達が機嫌の悪い顔をしていると、
「私のせいじゃないか」「嫌われたんじゃないか」と不安で仕方ありませんでした。
「どうしたの?」と心配してるふりして、自分のせいじゃないかを確かめたり、
ご機嫌をとってみたり、笑うまでなんとか努力したものです。

自分が嫌いな人からも、嫌われるのがイヤだったんです。
だから、嫌いな人でも、イヤと断ることができず、私の周りには、
ワガママな人ばかりが集まっていました。

なんで私は嫌いな人や合わない人とばかり一緒にいるはめになるんだろう。。。
そんな想いをもちながら、学校生活を送っていました。

常に、人を怒らせないように、波風たてないように、嫌われないように、
人の言う通りにし、愛想笑いをし、おどけてみせ、いつもいつも人に合わせて行動していました。

自分がどんな人が好きなのか、どんな人と合うのか、そう言うことさえも分からず、
とにかく嫌われないようにしていたのです。

「いい子」すぎて将来の夢さえも、親の言うがままに。。。(学生時代)

なぜ、そこまで従順だったのか、自分でもよく分かりませんが、
とにかく私の中で、親の言うことを聞いておけば「間違いはない!」と思っていました。

中学3年の進路相談の前に、「幼稚園の先生になりたい」と親に相談したんです。
すると、「これからは子供が少なくなる時代で、幼稚園の先生は余る時代だから止めたほうがいい。
おまえは、そろばんが得意だから、証券会社のような金融関係に進んだらいいんじゃないか。
これからは証券会社はいいぞ。」
という将来を見据えたような答えが返ってきました。

その後、当時の担任の先生にも、幼稚園の先生は、やめた方がいいと言われ、
「3人の社会を知っている大人が言うなら、間違いない!私は、幼稚園の先生にはなれないだろう」
と、社会からはみ出すのが怖くて、すんなりと夢をあきらめ、親の提案する道をいくことにしたのです。

この選択が、共依存の苦しみを大きくするポイントとなった気がします。
自分の夢を失った私は、社会人になると「人の夢を応援することを自分の夢」にし、
人の夢に便乗する(幸せにしてもらう)ようになっていくのです。

私の居場所はどこか。。。?(学生時代)

私は、埼玉県出身ですが、父の仕事の都合で、小3〜中3の7年間を福島県で過ごし、
高1から、また埼玉へ戻りました。

大学へ進む目的がなくなったので、高卒でも、証券会社への道に有利な学校を自分自身で選びました。
その高校は、親の大賛成があったので、迷いなく受験し、希望校に入りました。

新しい生活に、希望を膨らませていましたが、
新学期が始まると、希望が一転し、孤独と不安が押し寄せてきました。

7年間を田舎町で過ごしていた私は、クラスメイト全員が、都会的でセンスも良く、
とても大人に見え、一気に劣等感の塊になりました。

私は、誰と仲良くしたらいいのか、誰が私を受け入れてくれるのか、と不安な気持ちでいるのに、
他の人達は、初日からすでに打ち解けているように見えました。
孤独感と焦りで、毎日、学校に行くのが苦痛でたまりませんでした。

夜は、寂しさと不安で眠れず、朝は、緊張で目が覚め、吐き気で食事もままならず、
魂が抜けたような目をしながら登校していました。
一度でも休んだら、その楽さに甘えそうだったし、行ったら何か進展があるかもという希望と、
何よりも、学校に行けなくなったら、社会から外れてしまうという恐怖から、
自分を奮い立たせて登校していました。

これが社会不安の症状の一つ、対人緊張だったのですね。

やがて、部活も始まり、友達も増え始めると、緊張や恐怖がなくなり、自然に克服しましたが、
自分の居場所はここでいいのか。。。?という疑問や、どこにも属し切れていないという感覚があり、
孤立感・孤独感は高校の3年間、ずっとありました。

この時からすでに、アダルトチルドレンの特徴が垣間みえていたのですね。。。

親の言うことは、間違いなかったはずが。。。(社会人になってから)

高校卒業後、めでたく証券会社に入社しました。
証券会社の醍醐味を感じられる、エキサイティングな部署に配属され、バブル時代を過ごします。
表面上は安泰に見えましたが、親の言う通りに進んだ道だったのと、表面的な仕事しか見れていなかった私は、すぐに仕事がつまらなくなりました。

それでも「何事も3年やらねば」という思い込みがあり、3年たとうとした頃、バブル崩壊がおこりました。
大手証券会社や銀行が潰れ、それまでの社会の常識が、ガラガラと崩れていったのです。
「親の言うことは、間違いない!」「親の言うことを聞いていれば安心!」という私の中の信念も、ガラガラと崩れ去りました。
この歳になり、初めて「親の言うことは必ずしも正しいわけではない」ということを知るのです。

そんなことがあり、2番目の夢だった「お店をやる」という道を 友人と一緒に叶えようと、
夜間の調理師専門学校へ、行き始めました。

過敏性腸症候群の症状が出始めたのもこの頃です。

証券会社の朝は早く、1時間半かけて出勤し、会社が終わると学校で授業を受け、その後は友人と遊ぶ。。
という、無茶苦茶な生活でした。

友人からの誘いを断れず、夜中まで遊び、朝は起きれず、焦って出かけてお腹が痛くなり、何度も途中下車。
昼夜関係なく眠気に襲われ、仕事も勉強も集中できなくなりました。

バブル崩壊後の証券会社の仕事は、ヒマを持て余し、眠気との格闘だったので、退職することにしました。
この時はもう、親も反対しませんでした。

一見、夢を選択したような形になりますが、ここから長い長い自分探しが始まるのです。。。

共依存のはじまり?!

「お店をやりたい」という私の新たな夢が友人と一致し、一緒に叶えようとしていました。
ところが、友人はある問題を抱えていて、お店どころではなくなってしまいます。

人との境界線が育っていない私は、友人が抱えている問題が、いつのまにか自分事になり、
友人のためにと、いろいろ動きまわり、できる限りのことをしました。

これが共依存で苦しんだ最初の経験です。

何をやっても、苦しい状況は変わらず、心身ともに疲れ、身動きが取れなくなり、
結局、最後には親に助けを求め、親の言うことを聞きました。

そして、友人とは距離を置くことにしたのです。

ホッとしたのと同時に、見捨ててしまった。。。私は、なんて冷たい人間なんだ。。。と、
しばらく罪悪感で苦しみましたが、この時は親の言うことを聞いて良かったし、守ってもらえたと思います。

その後は、「お店をやる」という夢を自分ひとりでも叶えたい気持ちと、
ひとりでやれるのかという不安を持ちながらも、夢の方向に向かって仕事を探しました。

喫茶店のカウンター調理の仕事をみつけ「面接に行く」と親に話すと、
「そんな不規則な仕事はからだを壊す、普通の会社がいい」と言われ、
自分ひとりでやる自信がなかった私は、またまた、それに従ってしまいます。

「親も間違うこともある」と知ったはずなのに。。。
幼稚園の先生になれるかどうか、挑戦することすらしないで、後悔したはずなのに。。。

「親の言うことは間違いない!」という思い込みは、いつも私自身の未来へ向かう決断のときに、
私を狂わせたのでした。

恋愛に苦しむ日々。。。

 

親の言うことを聞き、通勤がほとんどない(過敏性腸症候群の心配があったため)、自宅近くのシステム会社に入ります。

仕事自体はとてもエキサイティングで、やりがいを感じていました。
仕事がノッテきたところに、恋愛もはじまりました。

仕事としての夢も大切だったけれど、やっぱり結婚し家庭を持つというのが、私の最大の夢でした。
ゆえに、全力でその恋愛にパワーを注いだのです。
自分を犠牲にし、私の夢を叶えてくれるであろう相手に、尽くして尽くして尽くしまくりました。

けれど、尽くせば尽くすほど、不安になるばかり。
結局、相手は息苦しくなり、私の想像していた最悪のパターンで、その恋愛は終わりました。

悲しみと苦しみで心が潰れそうだった反面、どこかでホッとしていた自分がいたのを覚えています。

自分をとことん見失い恋愛依存になった時期でした。
その後の恋愛でも、この時のよりはマシになりましたが、恋愛から結婚へ発展することはなく、失敗を繰り返していました。

究極の共依存で心身共にどん底に落ちる。。。

恋愛もうまくいかず、自分のやりたいこともわからなくなっていた私でしたが、辛い経験をしたことや、今までの仕事の経験から、「人と触れ合い、人を癒す仕事をしたい」と思うようになり、リフレクソロジーやボディセラピーの技術を習得し、仕事としていくことにしました。

この時も、父の反対にあいましたが、いい加減、腹が立って、
「うるさいな!なんで、私がやりたいことにいちいち反対ばかりするの?!一生懸命、前に進もうとしてるのに、なんなのよ!!」
とキレてしまったのです。

でも、それからは、何事も反対するものの、前のように最もらしい理屈で、コントロールすることは、なくなりました。

ひとり暮らしもし、物理的に親との距離がとれたのもあり、やっと精神的な自立をし始めた時だったと思います。もちろん、遅すぎますけどね(苦笑)

親からの精神的自立が一歩進んだ一方で、今度は、仕事上の人への共依存的行動が、最高潮に達します。
その人に認めてもらいたい、どうにかして良好な関係を保ちたい、という想いで、尽くしに尽くしていましたが、私への態度はどんどん冷たくなり、関係は悪化する一方。

やがて、自分の「一生の仕事に」と思っていたものが、全てなくなりました。
この時はもう心身ともにボロボロになりました。
その仕事に全てを注いでいた私は、完全に自分を見失ってしまっていたのです。

だけど、この時も心の奥底で、ホッとした感覚がありました。
ゆっくりしたい。。。
普通の生活を取り戻したい。。。
地に足をつけて現実をしっかりと生きたい。。。

それから、時間をかけて、少しずつ自分を取り戻していきました。

そしてしばらくしてから、無理しなくていい、心地のよさを感じられる夫と出会ったのです。

突然襲われたパニック発作。。。

結婚をし、ようやくホッと出来る自分の居場所ができたのも束の間、突然、パニック症状が出始めました。めまい、水様便、喉がキューと締まる感じ、吐き気、脳みそがぐちゃぐちゃになる感覚、動機など。
一般の病院に行っても、どこも悪くないと言われ、得体の知れない症状に、不安と恐怖で一杯になりました。
そして、夫に連れられ、この時初めて心療内科にかかったのです。

症状が出て間もなかったのもあり、特に診断名はありませんでしたが、「とにかく仕事を辞めなさい」と言われました。
独身時代の心身の疲れをそのままにし、望んでいたとはいえ、結婚という大きな環境の変化、仕事と家事の両立を完璧にと、またまた自分を省みず、頑張っちゃってたんですね。
とにかく、辛い症状をなんとかしたかったので、仕事を辞めて、まずは体を休めることにしました。

仕事をやめ、始めのうちは夫を送り出すと、眠くて眠くて、起きていられず、午前中はほとんど寝ていました。
ぐうたらな自分が情けなく、夫に申し訳ない気持ちにもなりましたが、とにかく眠い!これが、からだの声だったのですね。
2ヶ月くらいたったころからやっと、眠らなくても大丈夫になり、普通に活動できるようになりました。

その後、体調も落ち着き、高齢でしたが、無事、子供を授かることができました。

不快な感覚が蘇る。。。

子育てが始まり、ママ友の集まりや保護者の集まりなどで、今まで忘れていた、高1の時の感覚が蘇ってきました。

以前のように、それに苦しめられる訳ではないけれど、「あ、あの感覚。。。」不快だけど、懐かしい感覚です。

どうして私はそういう感覚になってしまうのか?
「新しい人間関係の集団の中」で感じる、この感覚はなんなのか?
と自分の中で、疑問が膨らんでいました。

それと同時に、常に周りを気にし、頼まれてもいないのに世話を焼いてしまう、焼こうとしている自分のことが、不思議になりました。

そして、そこから自分の人生を振り返り、なんで、私の周りにはあんなに問題のある人ばかりいたんだろう?と、いろんな疑問が沸き起こってきたのです。

心理カウンセラーへ。。。


今までの自分に対して疑問が湧き起こる中で、子供も成長し、今後の自分について考えるようになりました。

体の癒す仕事をやってきた中で、心と体のつながりを深く感じていました。
体から働きかける方法で、理屈抜きに癒されていくこともあるけれど、心の問題を抱えているために、同じ部分へ症状が出て、痛みを繰り返したり、なかなか滞りが解けない部分があったりして、心とのバランスをとっていくことが必要だなと感じていました。

さらに、自分自身も生きづらさを感じながら生きてきたことで、人の心の仕組みにとても興味がありました。
それで、心理学を勉強し始めたのです。

その中でやっと、自分がアダルトチルドレンで共依存だったこと、それゆえ、問題のある人ばかりを無意識に自分が引き寄せていたこと、よみがえった感覚が、社交性不安障害の一つの症状で対人緊張だったことがわかりました。

そして、思考のくせを変えていく方法があることも知りました。

勉強を進めていく中で、心理カウンセリングは私の求めていた「地に足の着いた癒しの方法であり、自己改善法である」ということを実感したのです。

私の長い長い道のりは、この仕事をするために必要だったのだと思います。

ひとりでも多くの人が、私のように、長い時間悩み苦しむことなく、早い段階で自分の状態に気づき、しっかりと地に足を着けて克服し、自分の人生を思いっきり、悔いなく生きて欲しいと願っています。

そして、そのサポートをしていくのが私の使命だと心から感じています。
私は、全力であなたをサポートしていきます!

 

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